僕の頭の中~文房具ライターの秘密~

文房具ライター:猪口文啓の頭の中(考えたこと、考えていたこと、秘密にしていたことを紹介します)

「幸せな人」は、どこにいても幸せです。そうでない人も、同じです。

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幸せな人は、どこにいてもどんな境遇に遭っても「幸せ」です。そして、そうでない人は、どんなにあがいても「不幸せ」。この違いは一体どこからくるのでしょうか?この謎を解き明かせば、「幸せ」のメカニズムがわかると思われます。

 

そのメカニズムがわかれば、ある程度自分で「幸せ」のコントロールが出来るようになるはずなので、みんなの「幸せ」度合いが変わってくるのではないかと考えています。こんな簡単なことなのに、なかなか辿りつかないのは何でなのでしょう?

 

今日はこの問題について考えてみることにします。

 

 

僕はどうして「幸せ」なのか?

 

簡単に考えてみると、どうして僕は「幸せ」なんだろうか?まず、ここから始めたいと思います。ある程度の幸運もありますが、一定レベルの生活をさせてもらっていて「満足」しているからそう感じているのだということがわかります。

 

同じ境遇でも「満足」さえすれば「幸せ」につながります。「満足」のハードルが低ければ低いほど「幸せ」に近づくということがよくわかります。簡単に事例をあげると、1日500円の生活費でも「満足」すればそこに「幸せ」が生まれます。

 

やたら周囲と比較して、自分で勝手に決め込んだ基準と比較して、「私は全然ダメ」と決めてしまう人が多いですが。そういう人は益々「満足」から遠ざかってしまうので、永遠に「幸せ」にたどり着くことが出来ません。これは辛いですよ。

 

 

「幸せ」の定義付けと見直しが必要だ。

 

何が「幸せ」で、何が「不幸」なのか決めておきましょう!ここ大事です。

 

例えば「お金はあればあるほど良い!」みたいな定義付けだと、一生不安と戦い続けなくてはなりません。きりがないからです。10億円持っていても、それでは飽き足らず運用の利益がどうなっているのか心配で眠れないのと同じです。

 

あなたの「幸せ」は一体何ですか?

 

「家族と過ごす時間」「結婚すること」「子供を産むこと」「お金を貯めること」色々あると思いますが、そういうことが目標になると、いつかプツンと切れてしまいそうな不安感はありますね。やはり自分と向き合うことが大事です。

 

楽しく元気に生きて行くためには何を目標にしたらいいんでしょうか?

 

やはり「自分」と戦うしかなさそうですね。

ここの部分は追々向き合っていきましょう。

 

 

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正解はない、迷いながら生きて行く。

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最近「そんなに頑張らない方がいいよ」と周囲の人に言い続けている。そんな風に言われた人の反応は「あなたはいいけど、私は頑張らないといけない時期なのよ」とか「頑張りたくないけど、やるしかないの。仕方ないでしょ」と反論される。

 

ここの部分は、なんとなくであるが「日本の教育」が悪いように感じる。社会を形成する上では必要条件なのかも知れないが、頑張ることや規律を乱さないことが美徳であるという意識が底辺にこびりついてしまっているみたいだ。もちろん僕もそうだ。

 

頑張っていないといけない気がする。予定がないとつまらない人間のような気がする。さらには仕事がないとダメな人間のような気がする。僕でさえ恐ろしいほどの強迫観念が生きているだけなのにつきまとってくるのだ。恐ろしいことだ。

 

もっと肩の力を抜かなければ、最後までもたないであろう。マラソンを走っている途中で座りこまないように、力をセーブするしかないと僕は改めて感じた。走っている僕ではあるが、座り込んでいる僕も許してあげられる大きな人間になりたい!

 

 

「言葉を食べて力となす」林家正蔵師匠の言葉

 

何度も、何十年も高座に上がっていても緊張する。まるで駆け出しの前座のようにドキドキと胸が高鳴るのだ。悩み、苦しみ、気弱になる。ここは性分だからしかたがない。そんな時は「人の言葉」が何よりもの道標になる。

 

あれほどの技を持った落語の師匠でさえ緊張するのかと、新聞記事についていたコラムを読んで驚いた。そうであるなら、僕たちのような人間は緊張して当たり前ではないか。もっと言えば失敗して当たり前ではないかと考えた。

 

師匠は「言葉を食べて力となす」と揶揄してみえたが、我々のような凡人なら100点満点どころか60点くらいで十分なのではないだろうか。僕たちは「本当にこれでいいのか」とビクビク怯えながら生きて、死んでいくのではないだろうか?

 

 

心にも「オートファジー(自食作用)」が必要なのだ。

 

もう一つ最近新聞を賑わしているノーベル賞を受賞した「オートファジー」。細胞が不要になった細胞を自食することを証明したものだ。細胞がこうであるならば、僕は心にもこの作用が必要ではないかと考えた。

 

何かを飲み込んだり、飲み込まれたり、破壊されたり、再生したり。何が「正しい」とか「正しくない」とかもない。さらには「こうあるべき」という確固たるものもない。僕たちはいつでも迷いながら生きているのだ。

 

正解などなくて良いようにさえ思えてきた。それで良いのかもしれない。

 

 

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【注目記事】世間には「一銭の得にもならないこと」をやる人がたくさんいるぞ!

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「それ、僕にとって何の得になるんですか?」「一銭にもならないからやりません!」こうやって仕事を断ってきたり、提案したことにとりあわない輩が世間に溢れかえっています。同世代にも、先輩後輩にも、こんな様に冷めた人間が満ち溢れています。

 

一体いつからこんなつまらない社会になってしまったのかと驚きますが、若者たちが極度に失敗を恐れる傾向は年々強くなっているように思います。そんなんで面白いのかな?そんなんで成長出来るのかな?と思いますが、直すことは出来ません。

 

そういう人たちの結末も見えていますし、助言しても修正出来ないことが多いです。最近は、修正しようという気持ちも薄れてきてしまいました。一体どうしたら良いのかとか考える前に自分の成長にもまだエネルギーが要るので、そちらに集中しています。

 

 

みんな、迷いながら苦しみながら生きている。

 

実のところは、みんな悩みながら苦しみながら迷いながら生きているんですよね。そんやって生きている人が成長して成功しているのです。その部分を拒否して冷めている人には「幸せ」はやってきません。断言してもいいです。

 

世間には「一銭の得にもならないことをやる人」がたくさんいます。今日も僕は一銭の得にもならないことをしてきました。でも、こうやって積み重ねたり迷っている方が「幸せ」になれると信じているので続けています。

 

その苦しみから安易に逃げると成長が止まってしまうのです。さらには周囲に努力しない要領だけでしのごうとする人」と評価されてしまいます。そうなったら信用はガタ落ちして、すべての仕事がうまくいかなくなってしまうのです。嫌ですよね。

 

オススメする生き方は目先の利益にとらわれないこと

 

目の前の利益にとらわれるのは止めよう!そんなことをやっても得にならないと感じている人は目先にとらわれすぎているのです。実際には、自分が考える目先の利益はないも同然で小さなものです。見えていない利益のほうが大事なんです。

 

例えばですが、毎日本を読んでも、毎日ブログを更新しても利益はありません。でも、これを継続して何年も続けると「価値」が発生するんです。その「価値」が大きい人ほど世間で大事にしてもらえます。信じられないでしょうが、本当の話です。

 

さあ、今日から小さな価値観にとらわれた目先の利益に引っ張られて行動するのは止めましょう。誰も評価してくれないけど、自分が満足する素敵な仕事をすればいいのです。素敵な勉強をすればいいのです。ここはちょっと強引に突き進みましょうね。

 

 

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感動漫画『四月は君の嘘』の映画化決定!

 

『四月は君の嘘』が映画化されることになった。漫画では味わえない映像と音楽のコラボが楽しめるので、ここはとても楽しみにしている。さらには漫画で感じたあの大きな感動を、どのくらいまで映像で再現してくれるのかも楽しみである。

 

天才と周囲に思わせるくらいの才能に溢れている人はいいなぁ。どんなに努力しても、なかなかその領域までたどり着くことは難しい。難しいけど、放り投げてはいけない。人生を楽しむシステムはそういう人には微笑まないようにできているのだ。

 

僕は子供の頃に運動もできなかったし勉強もできなかった。それはもちろん今もそんなに変わっていないことなのだが、劣等感の塊だった。別に存在していてもいなくてもどちらでもいいような人間だと自覚していた。完全にその他大勢だったのだ。

 

だから夢もなかった。そんな大きな夢を持ってもかなわないと諦めていたし、平均点を取り続けて生きていけばいいかなと思っていた。(実際には平均点も取れていなかったのだが)思い切り拗ねて色眼鏡で社会と自分を見ていたのだと思う。

 

 

どうせ死ぬのに頑張る必要があるのか?

 

こう言ってしまえば終わってしまうのだが「どうせ死ぬのに頑張る必要があるのか?」と思っていた。どんなに頑張って磨き上げてもそれは砂上の楼閣であって、波が来た瞬間に飲み込まれ流されていってしますのだ。虚しいことこのうえない。

 

そんな努力をするくらいなら最初からやらない方がマシだろうと思い、ダラダラした日々を過ごしたこともある。そんな僕が気がついたことは、「あれ、そういえば明日にでも死ぬかもしれないぞ。赤ちゃんも老人も条件は同じではないか!」

 

さらに気がついたことは「努力を怠っている人間は輝いていない」ということ。そんな時に人事異動があって、体調を崩して、仕事だけやっていればいいという観念を打ち砕かれて、ビジネス本を読むようになった。

 

 

同じように生きているならば「発信」し続けよう。

 

ピアニストやバイオリニストにはなれなかったが、幸運にもブロガーにはなれた。実はなろうと思えば誰にでもなれるのだが、なろうと思わないとなれないので、なれたことはラッキーだった。この幸運は今後も大事にして生きていきたい。

 

ビジネス本を読むことは「発信」する準備をさせてくれた。何千冊も短期間で読んだので、凝縮したエッセンスが僕の中に残った。本を読んでそれをまとめる姿も家族に見せることができたと思う。子供達は本ばっかり読んで楽しいのかと思ったと思うが(笑)

 

同じように生きているなら「発信」し続けよう。それが生きている証だから。さらには諦めるのはやめよう。それはいつでもできることだから。この映画を見よう!この映画を見て何を感じることができるかで、人生の取り組み方がよくわかるかも知れない。

 

 

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『メガ恐竜展』を観ながら考える「鵜呑みにしない姿勢」

https://www.instagram.com/p/BKuVsh3hjYa/

 

 

情報を鵜呑みにしない心構えを作っておくこと。

 

今日は豊橋市自然史博物館まで車を飛ばして「メガ恐竜展」を観てきた。家族連れとカップルばかりだったから、おじさん一人で恐竜の化石をニヤニヤしながら触っている姿は周囲から見たら奇異に見えただろう。そんなことは全く関心がないから大丈夫だ。

確かに竜脚類と呼ばれる恐竜の化石は驚くほど大きく驚いた。もし同じ時代に生きていたら簡単に踏み潰されていただろう。そんなところを想像して展示物を観ていると、あっという間に時間が過ぎてしまい、歯医者の予約時間に遅刻した。

僕はこの博物館にいる間、ほとんどの時間2つのことを考えていました。一つは「どうしてここまでの巨大化に至ったのか?」もう一つは「これは本当に鵜呑みにしていい情報なのか?」ということです。今日はここについて書いてみたいと思います。

 

https://www.instagram.com/p/BKuWAvXh2zh/

 

異端者であることの意味は大きいし、エッジが効いている!

 

一つ目の疑問に対しての答えは展示パネルが準備されていて解説がされていた。何度も読んだが、いまいち理解出来なかったが(笑)、大まかには巨大化のプロセスが理解出来た。巨大化の謎には「象」「鯨」というモデルがあって証明済なのだった。

もう一つの「本当なのか、鵜呑みにしていいのか?」という疑問に対しては、答えはない。しかし、教科書に書いてあることや、書籍に書いてあることを信じすぎてもいけないのは間違いない。信じられていたことが覆った事例はいくらでもあるからだ。

クリエイティブの人はここを結構大事にしているみたいだ。「簡単に物事を信じて周囲の人と同じにになってしまうことをとても恐れている」という発言を著名人から直接聞いたこともある。そこを僕も気をつけたいと思っているのだ。

 

https://www.instagram.com/p/BKuW2NiBQuJ/

 

学校教育の「狙い」と「盲点」

 

学校教育の「狙い」は、課題とされることを暗記して的確に頭に叩き込みテストでいい点数を取ることにあるように思える。実際に記憶力や応用力のある人間が学校では幅を利かせていた。しかし信じない人間は異端者で受け入れられない仕組みだった。

こんな教育を何年も疑いもせずに受けてきた僕たちは従順な人間になり、さらには社会人になった。だから、日本はある程度平和なのだ。納税も法律も守られ、それが秩序となって受け継がれていく。そうでなければ成り立たない部分もあるのかもしれない。

でも、僕は「疑う」「考える」「鵜呑みにしない」姿勢を大事にしたい。周囲にも教えたいし、子供にも伝えたい。そのために異端児となって辛い目にあっても、そこから本当の「幸せ」を掴み取ることが出来るからだ。

 

もう1度、この部分については周囲と話し合って決めたいものだ。

 

 

合わせて読みたい「鵜呑みにしない思考」について

 

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「人生は重荷を背負って遠き道を行くがごとし」でも、背負わなきゃいいかも!

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人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。
勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり。



 この意味は、おおよそ次のようなものです。

 人の一生というものは、重い荷を背負って遠い道を行くようなものだ。急いではいけない。
 不自由が当たり前と考えれば、不満は生じない。
 心に欲が起きたときには、苦しかった時を思い出すことだ。
 がまんすることが無事に長く安らかでいられる基礎で、「怒り」は敵と思いなさい。
 勝つことばかり知って、負けを知らないことは危険である。
 自分の行動について反省し、人の責任を攻めてはいけない。
 足りないほうが、やり過ぎてしまっているよりは優れている。

 

僕の生家には尾張地区の田舎らしく上に引用したような徳川家康の遺訓が飾ってあった。なかなかいい言葉ではあるが、ちょっと疑問を持っていた。その疑問は、本当にみんなが思い荷物を背負って歩いているのか?ということである。

自分では背負いきれないような重い荷物を背負っている人もいれば、全く荷物も背負わずに悠々と歩いている人もいる。全くもって不公平なように感じていた。ばあちゃんに聞くと、みんな背負っているんだと言い切ったが納得できなかった。

簡単な例を挙げると、我が家の両親は共働きで生活に余裕がなかった。でも友人の家ではお父さんしか働いていなくて、お母さんは家でのんびりしているとのこと。これはどういう構造になっているのだろう?徳川家康はこれを許すのだろうか?

 

最近になってわかってきたこと。

 

子供心にそんな疑問を持ちつつ大人になった。年齢を重ねるごとにわかってきたこともある。それは「人間というのは、その人に見合った悩みを精一杯背負って生きている」ということである。これは結構な真理だと思う。

人間が持てる「悩み」の量は、人それぞれである。でも持てる精一杯の量しか持てないし、たいていの人が持てる限界の量まで持っている。それが生きている証のように思っているのかも知れない。善人も悪人もここは同じだ。

限界の量まで持っているので、新しい「悩み」が到来すると今までもっていたものを手放さなくては対応できないのも人間の面白いところである。これはうまく利用すれば問題解決のスピードを速くする手段にもなるので考えてもらいたい。

 

上手な生き方は、これじゃないだろうか?

 

それではうまく生きていこうとするならば、どうしたらいいのだろうか?どちらにしろ、「悩み」は背負って生きていかなくてはならないものなのだ。これを軽くする方法はないのだろうか?と色々考えてみた。

それは「背負わないこと」かもしれない。

基本、背負わざるをえないものをずっと背負っているんじゃなくて、歩くときにはキャリーバックに入れておいて、考えたり、向き合ったりするときだけバックから取り出して「背負う」のだ。これが一番体力を使わなくていい!

お前はアホか?と言われるかもしれないけど(笑)こうすれば楽に生きていけるんじゃないだろうか。思いつめて体調を崩したり病気になったりすることもなくなるんじゃないだろうか。是非是非、ここに挑戦してもらいたい。

 

 

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「修復」と「再生」について

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生きていると喜怒哀楽が容赦なく襲いかかって来る。長い間生きているので、ある程度コントロール出来るようになってきたがまだまだ修行が足りないようだ。今月は、自分が基本もろくて崩れやすい人格だということをつくづく思い知らされた。

やはり一番ダメージを受けるのは、周囲の人が亡くなってしまうことだ。頭では理解していても、もう会えなかったり、会話も喧嘩も出来ないと思うと切ない。この切なさは、どうにもならない。時間をかけて「修復」するしかないのだ。

今日は、その「修復」と「再生」について書いておきたい。

 

 

心の「修復」と「再生」について

 

僕は毎日のように人通りのある縁側で座り込んで道行く人たちに微笑んでいるけれど、とても笑う気になれない日がある。そんな時には誰もいない中庭に座り込んで、自分だけの作業に没頭したい。とにかく粘土を練るような作業がしたい。

その作業は思いつく限りの思い出の破片を集めて、自分の中からごっそりと持っていかれそうな部分に粘土を使ってその破片を塗り込めていくのだ。その作業を続けていくうちに、いつの間にかその部分が「再生」してくるのが実感されるのだ。

そうするとその喪失感が和らいできて、過去に数年間戻ってやり直すことができる。年齢を重ねるうちに、そういう作業をしないとやっていけなくなっていることに気がついた。「修復」と「再生」はそんなプロセスなのだ。

何かをなくすことは辛い。自分から意志を持って手放すのはいいのだけれど、引き剥がされるのは痛みを伴う。その痛みはやけどした痕のようにいつまでも引きずる。だから「修復」の作業は大切なのだ。

 

 

実際にあってもなくても同じ状態に戻してあげること。

 

おばあちゃんが死んだ時の喪失感はどうしようもなく大きかった。おばあちゃんは昔からよくどうしようもない僕を褒めてくれた。褒めてくれる人は少なかったので、おばあちゃんの言葉は心の支えだったのかもしれない。

「お前はしっかりしている」「お前は良い子だ」と繰り返し言ってくれたことには感謝している。でも、死んでしまったのでもうそんなことを語りかけてくれる人はいない。僕はそのなくした穴を粘土を使って塗り込んで「修復」した。

その「修復」した部分は、よく見ると元どおりにはなっていないのだけど、「修復」していないよりも大いに良い感じである。センスは良くないけど、意外に頑丈に出来ていて今までの機能は十分に果たしている。

 

 

さあ、「再生」して街に出よう!

 

僕は粘土をこねて汚れた手を綺麗に洗って中庭から、もう一度縁側に座りなおす。もう一度外を眺めて見ると、同じ人たちの流れを見ても上手に微笑んでいられる自分が良く分かる。こうやって魂は「再生」する。

僕は知っている「再生」しないと、中庭に居続けるしかないことを。中庭に居続けたら、周囲とは関係を持てないことを。そして、長時間居続けたら時計が止まってしまうこと。そして時計は止まっても時間は流れ続けること。

さあ、一刻も早く「再生」して街に出よう。みんな同じように傷つき悩んでいる。そして何度も「修復」と「再生」を繰り返して頑張っているのだ。頑張りすぎる必要はないが、確実に歩いていくために「再生」しよう!

 

 

 

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