僕は子供の頃、異常に嗅覚が発達していた。普通に良い匂いが好きであったが、そうでない匂いもたくさん入ってきた。嗅覚はすぐに疲れてしまう感覚なので、限界があったが人とは違う情報量の多さにささやかな優越感を持って暮らしていた。
小学生の頃には、嗅覚を使って周囲の人の体調がわかるようになっていた。そのうちに吐く息と熱気で感情もわかるようになった。その感覚はエスカレートしていって、知りたくもない情報が洪水にように流れ込んできた。頭がおかしくなりそうだった。
聞きたくもない音楽を毎日大音量で聞かされていると、そのうち音を受け付けなくなる。そんなことはわかってはいたが、「情報」には飢えていたので不必要な時には耳を塞ぎながら小さくなって生きていた。誰にも見つからないように静かにしていた。
周囲と情報量が違うと予言者になれる。周囲がぼんやりとみえているものが、くっきりと見える。その差が「予言」する力なのだ。下手をしたら死期や婚期までもわかるほどの力を身につけてしまったが、欲しくもない力だったのだ。
でも、そうするうちに恐ろしいほどの「疲れ」がやってきた。どうしようもなく疲れ果てて僕は選択をせまられた。このまま行くのか。それとも止めるのかという選択だ。僕は後者を選択し、そのかわり僕はすべてを失った。
すべてを失って良かった。
そう人生には失って良かったと思える事象がたくさんある。自分の両手で持てるだけしか持てないのだ。字が書ける手は一本あれば十分で、何十本もあれば頭でコントロール出来なくなるだろう。そうすると暴走が始まるのだ。
自分に余るような情報ならないほうが良い。すぐに捨てに行こう。僕たちは不安と戦うために、できるだけたくさん溜め込もうとする。持つことが安心につながると信じているからだ。でも、そうでなくても幸せに暮らせる。
嗅覚を失った僕は不自由はない。なんとか暮らしてはいける。怯えて暮らしているよりは、圧倒的な平和な毎日だ。こういうのが「幸せ」と呼ぶのかもしれない。それで十分なのである。
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